パリの専業主夫 -2ページ目

ギャラファ戦争始まる~パリのセール~

パリのセール(SOLDES、ソルド)がついに始まった。


僕らはギャラファ(ギャラリー・ラファイエット。このオペラ座の裏辺りにある高級百貨店を日本人はこのように呼ぶらしい。)にとりあえず走った。僕らのように常に節約モードで生活している人間にとってはソルドはどうしても外せないのだが、意外と普通のフランス人も買い物はソルドでだけする、なんていう話をよく聞く。


ソルドは昨日から始まっていた。他の国よりも少し早いのかもしれない。会社の人も有給を取ったり、早く仕事を切り上げたりしてソルドに向かう。そこまでするか、と思うがそこまでするらしい。街を歩けば、とにかく「SOLDES」の文字を目にする。この時期気候がよく観光客も多いので、余計にごった返しているのかもしれない。


ZARAの「SOLDES」ロゴ


で、ギャラファ。5月に来たときも思ったが、ここは買い物客の目つきと熱気がハンパではない。ソルド中、GUCCIなどの高級ブランドは入場制限をしていて店頭には長蛇の列。こういう光景を見ている方が面白い。奥さんも僕もメンズ、レディースに二手に分かれ、待ち合わせを決めて落ち会ったり、ああだこうだいいながら買い物をした。


ギャラファ1 ギャラファ2


彼女の買い物に付き合っていたとき彼女が試着をしようと近くの試着室に向かった。その前に仏人のおばさんが入って行ったようだったので、2人でその試着室前で待った。待つこと、1分、2分。一向にそのおばさんは出て来ない。5分経ち、6分を過ぎても、まだ出て来ない。こうなったら、他の試着室に変えようかと思って僕が探しに行ったけど、この混雑の中、そうそう空いている試着室はない。ま、そろそろおばさんも出て僕の奥さんの番になってるだろうと元の試着室に戻ってみても、まだ奥さんは待っていた。


と、その後、急にカーテンは開かれた。中から出てきたのは、洋服を10枚くらい抱えて、それでも抱え切れないので近くの店員を呼ぼうとしていたおばさんだった。僕らは洋服たちを通すため、その場を少し退き、おばさんが出るのを待ち、試着室に入ったのだった。おばさんはそれでも洋服を決めかねている様子だった。さすがに僕らの後ろで待っていた別のおばさんもその出来事に苦笑い、唇をへの字にしていた。


節約に掛けるフランス人の熱意はハンパないね。



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コンフェデ杯:日本対ブラジル戦観戦記

「ジーコ・ジャパンとしてこれまでで最高の試合」


どこかの記事にそう書いてあったが、僕も同意。それを生で観戦できたとは何とラッキーなことか。


試合前のコメントを覆し、ブラジルのパレイラ監督は中盤より前をベストメンバーで組んだ。アドリアーノ、ロビーニョ、ロナウジーニョ、カカー、ゼ・ロベウト、ジルベウト・シルバ。サッカーファンなら、これらの名前を発音するだけで興奮してくる。それなのに生で見られるとは・・・。


ロナウジーニョ アドリアーノ


パレイラ監督は試合前、「ジーコが出なければブラジルは大丈夫だろう」などと言っていたとかいないとか。でも、どうだろう。十分、日本代表はその鼻を開かしたことになるだろう。もちろん、ある程度、ブラジルが省エネモードでやっていたことは否めないし、ディフェンス以下はほぼ2軍と言っても差し支えないから、手放しでは喜べないかもしれないが、前線の世界最高レベルを肌で感じたことで出てきた課題はワールドカップへ向け大きな収穫になるし、曲がりなりにもブラジルを本気にさせた時間があったことは自信になるだろう。いずれにせよ、観戦しに行った人間にとっては、日本が善戦し、ブラジルがそれに対してある時間本気を出す、という最高の流れになった。


ギリシャ戦の記事でも書いた「スペース」についてだが、キックオフ直後は狭い、狭い。コンパクトなサッカーってこういうことなんだと感心した。ピッチの真ん中に選手がギュッと集約してボールを回していた。で、カカー、ロナウジーニョ、ロビーニョあたりがボールを回し始めたら、もう息ができない。彼らの間に誰も人がいないかのようにボールが通る通る。体に吸盤がついているかのようにトラップが止まる止まる。もっとやれー」という気持ちと「やめてくれー」という気持ちが同時に起こる複雑な快感。その夜は、彼らのボール回しの残像が頭を離れなかった。


試合開始 ロナウジーニョのCK


一方、日本代表はどうだったか。いきなり開始直後、加地のシュートで会場は大きく沸いた。何かの間違いじゃないか!と思いつつ歓声を上げたが、やっぱり何かの間違いだった・・・。それ以降は、ブラジルにボールを支配されると、観客のように選手もそれを目で追うばかり。でも・・・。


ゴルフは精神的なスポーツだとよく言われる。でも、サッカーも同じように選手のマインドが大きく影響するスポーツだと感じた。どこかの解説者がよく言う精神論的な意味ではなく、形勢が有利になった途端に動きが良くなりボールが回るようになるし、得点された後は気持ちが落ち込み動きが緩慢になりミスが増える。見ている方は「分かりやすい奴らだなー」とつい思ってしまうが、それがサッカーでは一つの試合の中で如実に表れるようだし、この試合も生で観戦して実感した。でなければ、日本が2点目を入れた後、特にあんなにボールがつながり、大黒のヘディングにまで至った理由が分からない。科学的、医学的に根拠があるはずだと思うのだけど、知っている人がいたら教えて下さい(エンドルフィンなど脳内麻薬がどうのこうの・・・みたいな)。


で、逆を言えば、それにもかかわらず得点された後、今回日本はよく奮起した。それがフロック的な俊介のミドルシュートであれ、流れからでないFKというセットプレーからであれ、きっかけを自分たちで掴んでよく盛り返したと感じた。ジーコや宮本がこれまで気持ち、精神的な問題と言っていたのは単なる精神論ではなく、サッカー特有の、マインドに左右されるプレーを出来るだけなくそうという選手としての実感だったのだ。それが今回、生で観戦して感じ取れた気がした。


とにかく楽しんだ。スタジアムもよかった。1FCケルン(ここも2005-06シーズンより2部から1部に昇格)のホームスタジアム で、収容人数は約46,000人。フランクフルトとは違い、ゲートが即スタジアムの入り口になっていたので、入場は楽だった。今回は余裕を持って2時間前には乗り込んでいたので、ゆっくり練習から堪能した。スタジアムの入り口や観客席は、ブラジルの応援団でいっぱい、というより「ブラジル」だった。


ケルン・スタジアム入り口 観客席のブラジリアン・・・



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コンフェデ杯:日本対ギリシャ戦観戦記

パリ→ブリュッセル→フランクフルト。


コンフェデレーションズカップの日本対ギリシャ戦を観戦するために移動した距離は800Kmほどになるだろう。大黒のシュートはその移動の疲れを完全にふっとばした


パリにいるの友人たちとパリからタリス(Thalys:フランス・ベルギー・オランダ・ドイツを結ぶTGV) でブリュッセルの友達のところに行って、そこから彼の車でフランクフルトへ行くというツアー。パリからブリュッセルまではタリスで1時間半程度、ブリュッセルからフランクフルトまでは車で3時間半程度かかる。


フランクフルトのスタジアム、バルト・シュタディオン(Waldstadion) は「アイントラハト・フランクフルト」(2005-06シーズンから2部から1部に昇格)のホームスタジアムで、このコンフェデレーションズカップに向けて改修されたばかりらしい。収容人数は約48,000人。もちろん2006年ドイツワールドカップでも使用されるスタジアム。このスタジアムは入り口のゲートからスタジアムに行くまでに森をくぐっていくような印象をもったほど距離があり、徒歩で5-10分ほどかかったが、時間に余裕があればハイキング気分で気持ちいいとも言える。


ただ、今回僕らはブリュッセルで軽く観光+ランチをしたのだが、レストランでウェイターの要領が少し悪かったり、サービスに時間がかかったせいで何とブリュッセルを出たのが午後3時近くになってしまった。試合開始は午後6時。ブリュッセル⇒フランクフルトは約400km。いったい何キロで車を走らせないといけないのか・・・。


ブリュッセルの市庁舎 ベルギービールで一杯・・・


それでも友達がぶっ飛ばしてくれたおかげで、午後6時ちょうどにはスタジアム近辺に着いた(すげー)。でもそこからが問題なのだ。駐車場はシートごとに振られている赤や緑の色にしたがって決められており、そこからゲートまでが歩いて10分あまり。で、上記のようにゲートからスタジアムまでも距離があるので、結局スタジアムで自分のシートにたどり着いたのは前半30分頃だった。


試合はどうなってる?どこを見てもスコアが分からない。。周りに聞いたら、まだ0-0だというのでホッとした。で、後半の大黒のシュートはしっかり見られたのだった。


スペースがよく分かる お客の入りは5-6割か・・・


いろんなところで書いてあるが、ギリシャのコンディションが最悪で、中盤にスカスカスペースが空いていた。

これがあの「欧州王者」かと。やっぱりスタジアムに来て感動するのは、全体が見渡せ、選手の連携がよく掴めること。ギリシャのスペースがいかに空いていたか、日本のボール回しのときにボールを持っている選手以外がいかに動いていたかなど、テレビでは見えないところがよく見える。サッカー観戦の場合、単に「臨場感がある」などということだけではない情報が生で感じられるのだ。


大黒のシュートだけでは物足りないほどギリシャの出来が悪かったが、それでも試合前は勝つことさえ予想していなかったので、かなり満足して帰途に着いた。それで気が抜けたせいか、スタジアムから駐車場に戻るまでになぜか「冒険」し、来た道とは違う道を使ったために迷ってしまいスタジアムの敷地近辺で1時間もうろうろ。帰りはクタクタ・・・。ブリュッセルに着いたのは午前1時半過ぎ・・・。


もちろん「冒険」なんかしたのが悪いのだけど、敷地が広いせいか、他のスタジアムより迷いやすいかも(言い訳)。来年のワールドカップでフランクフルトに行く方、時間には余裕を持って行きましょう!



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エッグチェアのある部屋

~「四季彩館 ブログ・コンテスト:#04 あなたのリビングで、一番気に入っているものは?」参加記事~


 その後永く付き合うことになるものとの出会いは、決まって突然やってくる。どれも最初は別の世界に留まっていたものが僕の視界に入ったかと思うと、轟音を立てて近づいてきて思い切りハートをわしづかみにし、離そうとしない。サッカーやオペラ、葉巻など。大人になってからハマっていくものにはどれにも当てはまる傾向だ。イスとの出会いもそのようにしてやってきた。


 5年前。僕は結婚を控えていた。その当時、建築やインダストリアル・デザインのことなどほとんど何も知らなかった。ただ当時、日本で何回目かのモダンデザイン、デザイナーズ家具のブームが来ていたらしく、多くの雑誌にそのようなデザインや家具の特集が掲載されていた。


 雑誌を通して僕に猛烈な勢いでアピールしてくるイスたち。数ヶ月のうちに僕はイスに熱中し始めた。イームズ、コルビジュエ、ハンスウェグナー、そして、ヤコブセン。自分にも何とか手が届く値段であり、生活の中で使いながら楽しめる機能性を備えたアートとしてイスは手ごろに思えた。確かに建築全体における調和、他の家具との関連性なども面白いが、イス単体でも一つの小宇宙があるほどだ。そうなるともう世の中のイスというイスへの見方が変わっていった。


 イスの虜になり始めた矢先、婚約者からあるお題を与えられた。それは「婚約にあたって新婦側が新郎側に贈る結納返しとして何か好きなものを決めて」というものだった。・・・まさか。いや、まさか。僕が好きなイスは高いよぉ。高い、高い。だめだ。他のものにしよう、何だろう。えーと、何もないよ、何もない。イス以外にないじゃないか!!


 ・・・というわけで、結局、エッグチェアを買ってしまったのだ。ただ、あまりに高いので僕も奥さんも小遣いを出し合ってみんなで買ったという感じになったのだが。


店頭にあったエッグチェア


 デンマークのデザイナーであるアルネ・ヤコブセンの代表作、エッグチェア 。このイスが僕を最も惹きつけた理由は形状と「卵」というメタファーだ。まず、「卵」という言葉からは小さい印象をもつが実際には大人の体がすっぽり隠れてしまうほど大きい。体を包み込む卵型という形状とともに落ち着きを与えると思った。後姿も何とも言えない哀愁があり、セクシー。そして何と言っても「卵」という言葉が象徴する事柄がいい。新しい生命を生み出そうとする「卵」というメタファーは、結ばれた2人が新しい生活を築き上げるのに最適だと思った。


エッグチェア越しに・・・


 色はライトブルー。もともと水、海を連想させる「青」が好きだったこともあるが、これをエッグチェアの色にすると座っている人間が水に浮いているようなイメージにもなって面白いと考えた。というところから、部屋全体の色の基調を、海と砂浜がイメージできるブルーとアイボリーにしようとイメージが広がり、そのようにソファ、ダイニングテーブル、カーテン、カーペットなどの家具を揃えていった。


 すっぽり体が包まれて落ち着くと言ったエッグチェアだが、実は必ずしも座り心地がいいとは言えない。背もたれのカーブに合わせてほんの少し体が前のめりになる。後ろにリクライニングするとはいってもよほど足を踏ん張らないと後ろに傾かない。ただ面白いもので、背筋を伸ばして適度に緊張感をもつべき読書には最適だし、前のめりになって熱中しがちなテレビゲームのときなどはよくこのイスに座ってやったものだ。来客の際は話題にはなるし、記念にとわざわざ座ってああでもないこうでもないと感想を言ってくれる人もいる。このイスがそれを楽しむ行動パターンやそれにまつわる会話のやりとりを自然に生み出していったのだ。


 1つの家具が周囲の生活環境ばかりか行動パターン、人間関係までをも彩る。確かに僕はそういう稀有で幸福な経験をしていた。運送費用のこともあり、渡仏に際しては泣く泣くエッグチェアを置いてきてしまったのだが、今は日本の実家でゴリラと子ブタに温められながら、持ち主の帰りを待っている。


ゴリラと子ブタが占領中



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街に溶け込むパリのアート

今日は天気がよかったし、運動不足解消も兼ねて夫婦でぶらりとヌーイからルーブルまで歩いてしまった。

パリは小さい。このくらいの距離は時間があって天気がよければ、景色を楽しみながら十分歩ける。シャルルドゴール通りを真っ直ぐ凱旋門まで歩き、さらにシャンゼリゼ通りをルーブルまで歩くだけ。ゆっくり道草を食いながら歩いても、1時間半程度だ。


ParisMap


ご存知の通り、少し歩いただけでも、アートが目に入る。意外なところに面白いアートがある。まずはフランクリン・D・ルーズベルト駅を過ぎた左手に芝が敷かれた気持ちいい公園がある。そこにこのようなエンジェルが隠れてた。矢を射る方角と飛行機雲のラインが対称をなして美しい。


Angel


さらにその先を行くと、現代アートの展示場と化しているスペースが出現する。ここは立ち入り禁止。
リヒテンシュタインが二つ。


Coup de ChapeauⅡ Galatea

                Coup de ChapeauⅡ(1996)              Galatea(1990)
                         by ROY LICHTENSTEIN


そして少し行くと、同じようなスペースにピアノを模したアート。演奏者も含まれているような気がするけど、どうでしょう。


Primo PianoⅡ

Primo PianoⅡ(1962)  

by  DAVID SMITH


僕的にかなりウケたのが、コレ。これどうみても「ボレーシュート」だよね。その下で平然と読書をしているのも、面白い。


ボレーシュート


これは確かテュイルリー公園内だったと思うので、是非見つけてみて下さい。ルーブルの敷地を出たところにはこのような高い雑草を模したアートが。


Hautes Herbes
Hautes Herbes(2003)
by  BEATRICE GUICHARD


これは「背の高い草」という意味のタイトルだけど、それが敢えて芝などの上ではなく、土の上に置かれているのがいい。黄金の草の刺々しさが反骨精神や強い意思を感じさせるね。僕は最初、大きな刀のようにも見え、気高い印象さえ持った。


気持ちいい散歩だったな。ここまで来たら、そのまま歩いて帰ろうかと思ったけど、昼をだいぶ過ぎていたし、さすがにお腹がすいてきたので、メトロでマレ地区まで行ってランチをしてメトロで家に帰って来た。帰って来ると思ったよりも疲れていたので、昼寝をしてしまった。夢には、リヒテンシュタインのアートが出てきて、ピアノ伴奏に合わせて踊っていた。



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専業主夫のビザ

 一週間ほど日本に帰国していました。帰国の目的は明快で、夫婦ともにビザを取得するためにだったんだけど。。僕だけ取れなかった!どういうこと?


 もちろんタイトルのように「専業主夫」用のビザがあるわけではなく、奥さんの就労ビザの取得とともに同伴家族のビザを取得することになっていたのだが、このプロセスに問題があった。要は、どのようなタイミングで同伴家族のビザを申請するか、という問題。通常、就労ビザの方は、簡単に言えば


1)申請: 雇用者⇒フランス労働省
2)許可の通知: フランス移民局(OMI)⇒雇用者、本人、日本の仏大使館
3)取得: 日本のフランス大使館⇒本人


という3ステップ。1)から2)までが1ヶ月~2ヶ月くらいかかる。奥さんの方はこのステップ1)の際に各種証明書などの必要書類を揃えて提出していた。ここで同伴家族はいつ申請するか?ということが問題だった。奥さんの会社の法務担当は3)の際に、一緒に窓口に行けばその場でもらえると言っていたので、そのように今回帰国した。ちなみに奥さんは日本企業の海外派遣ではなくて、フランス企業の現地採用というケース。


 ところが!大使館窓口では奥さんの就労ビザしかもらえなかった。その後、奥さんの会社と連絡を取りながら、あの手この手で帰国中4日連続で大使館通いをしたが、結局玉砕・・・おめおめと、すごすごと(何と言うんだろうこういうときの徒労感と情けなさを)何もできず成田に向かったのだった。


 ただ日本を出発する直前に、必要書類をパリに持って行ってもう一度、会社から申請1)をすれば1-2週間ほどで許可が下りる2)と会社の法務に伝えられたので、またそれ以降に帰国すればよいことが分かった。


 これって実際何が正解で何が悪かったのだろう。いろいろ説がある。もちろん、すべては会社の法務担当の責任、と言ってしまえばそれまでなのだが、現状として


・今、フランスでのビザ発行の制度自体が変わりつつある
・同伴家族のビザ取得が就労ビザのステップ3)から1-2週間程度で許可されそうだ


ということがあるので、会社の法務が最初「一緒に窓口に行けばその場でもらえる」と言っていたのも必ずしも間違いではなさそうなんだよねぇ。ただ、次回は本当にもらえるよね?って疑心暗鬼にもなってしまう。


 どなたか詳しい方いたら、教えてもらえませんか?


 あーまた近々、帰国しなければ。ブログのタイトルを「パリの専業主夫」から「観光ビザの専業主夫」に変えようかな・・・。


パスポート で、観光ビザ・・・



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無償の時間~あるアーティストの妻との出会い~

 エアポケットのように突然、予定もしていなかったすばらしい時間が訪れることがある。そのような何の目的も意図ももたない気持ちいい時間を僕は「無償の時間」と呼びたい。


 ちょうど1ヶ月ほど前、帰国売りの家具を買うためにあるお宅へ伺った。この時期は渡仏直後で短期アパートから新居に移り、家具をスーパーや帰国売りで調達していた頃だった。特に、この日は運送屋に頼んで、3件の日本人の家を渡り歩き、帰国売りの回収を1日で済ませてしまおうというプランだった。それも12区から、9区、ブローニュ、わが家のあるヌーイへとパリを横断するトラックの小旅行。運送料を節約するため、運送屋とは15時に最初の12区のお宅前で待ち合わせていたため、まず僕はヌーイから最初の家まで電車で行った。


 運送屋は日本語情報誌『Paris=Tokyo』に載っていた日本人の経営しているらしい運送屋だったが、実際、現場にモノを運びに来る運送人はスリランカ人だと知らされていた。僕は15時少し前に12区のお宅のあるマンションに到着。最初に部屋を確認しておこうかと考え、電話でそのお宅の奥様に教えてもらったルートを辿って10階のその部屋まで行った。呼び鈴を鳴らすと初老の女性が出てきた。白髪でスカーフを巻き、素朴なエスニック柄のワンピースを着ていた。年齢のせいか少し頼りない声を出すが、言葉を選びながらしっかりした話し方をする、カクシャクとした方だった。


 まず、電話で購入を希望していた、本棚・オーブン・電子レンジ・ランプなどを確認した。確認しながら、お宅の中を一通り見て回る形になった。その時点ですぐにここはアーティストのアトリエだと気づいた。もう引っ越しの準備が整いつつあり、運送屋のダンボールが並んだり、荷物が整理されたりしていたが、四角く、大き目の木製のテーブルやそれを照らすランプの風情、天井の高い部屋の作りなどがそう感じさせたのだろう。


 そんなことを考えているうちに携帯電話が鳴った。スリランカ人の運送人からだ。今まだ前の客の家にいて30分ほど遅れるとのこと。そう聞いて、僕は憤然とするとともに、その奥様と少しゆっくり話をする機会を得たことを喜んだ。その奥様にそのことを伝え、少し部屋で待たせていただくことをお許しいただいた。そして早速、


「こちらでは絵や何かを描いていらっしゃるのですか?」
「ええ、まあ」
「奥様が?」
「いえ、私ではなく夫が。絵ではなくてもっとガラクタみたいなオブジェなのよ。」
「では、コンテンポラリー・アートのようなものを?」
「そうね。」
「だんな様は何という方ですか?」
工藤哲巳(くどうてつみ)っていうんですが、ご存知?」


 僕は知らなかった。現代アートの主要なアーティストは押さえているつもりだったのだけど。。


「すいません、ちょっと知りませんねぇ。いつ頃から活動されていらっしゃるんですか?」
「1962年よりパリに来て活動してました。15年くらい前にもう他界しましたけど。」


 その後、イヴ・クラインとは?オノ・ヨーコとは?などと知っているアーティストの名前を挙げ、活躍時期を確認したり、奥様からクリストご存知?などと親しかったアーティストを挙げて説明いただいていた。


 工藤哲巳とは、後で調べたところによると、いわゆる「反芸術」「ネオ・ダダ」などといわれる活動をしていたアーティストの一人で、ある美術展の大賞の受賞をきっかけに1962年パリに渡ってパリを中心に活躍していた人。同時期に同様の活動していた人には、ちょっと前に日本の「ポカリスエット」のテレビCMで福山雅治とボクシング・ペイントを披露していた篠原有司男 がいる。作品を見ればわかるが、現代人の日常や既成概念を脅かす、過激で攻撃的でグロテスクな作品を多く残している。

「工藤哲巳展」(2002)

  アートツアー・イン青森  「工藤哲巳展」(2002)ポスター より


工藤哲巳作品

「未来と過去とのエンドレステープの間での瞑想」(1979)

「ギャラリー辻」HP より


 僕はすでにスリランカ人に感謝していた。彼らが遅れなければ、こんなアート談義などできなかっただろう。話はそれから夫婦で渡仏した当時のパリの話に及び、昔のマレ地区はあんなにキレイじゃなかった、この間久しぶりに行って、キレイなブティックが並んでいるのに驚いた、最近若い人に人気のオシャレなイメージのパリは嫌いだ、つまらなくなった云々、おっしゃっていた。


 工藤哲巳の死後、彼女は日本とパリを何度か行き来していたが、今回がパリを引き上げる最後の引越しだという。その彼女と、パリに着いて2週間ほどしか経っておらず、これからパリで何とか生きていこうとしている僕がこうやって話している。遠くにモンパルナスタワーやサクレ・クール寺院を眺めながら、本当にいい時間を過ごした。


 しばらくしてまた携帯電話が鳴る。スリランカ人だ。下に着いたという。僕は「もう着いたのか」と呟きながら階下に下りて行った。モノを運び出すと、ただの帰国売りの回収だというのに名残惜しい別れをしてそのお宅を後にした。そのとき買った、工藤哲巳のランプは今、僕の書斎のデスクを照らしている


工藤哲巳ランプ1 工藤哲巳ランプ2


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パリの玉子に生命の兆し

 弟の息子が生まれる予定日は10日も過ぎていた。渡仏が決まって出産前後には会えないことは分かっていたのだが、予定日には日本にいる弟にメールで連絡を入れた。そのときは、まだ生まれる気配はないよという返事。初産だから遅れるのが普通だと聞いていたし、それから10日も過ぎると、まぁいつか出てくるだろう、と小躍りするような興奮も抑えるようになっていた。


 突然今日の昼近く、弟からメールがあった。家で破水したらしく病院に行くので今夜辺り生まれそうだと。いよいよかと楽しみになったが、腹が減ってきた。ご飯に味噌汁はあるので、ハムエッグでもつくろうかとキッチンへ向かった。


 フライパンを温め、オリーブオイルをたらす。適当に切ったハムを入れ、冷蔵庫から取り出した玉子をフライパンの縁で割った。すると僕は出てきたものに驚き、思わず声を上げてしまった1つの玉子から2つの黄身が出てきたのだ。僕は生まれてから玉子を何百と割ってきたが、双子の黄身が出てきたのは恐らく初めてのことだ。しばらく2つの黄身の輝きにぼんやり幸福感を感じながら、ハムエッグを食べていた。


双子の玉子1 双子の玉子2  


 弟からのメールだけではなく、弟の息子本人が玉子を通じてパリにまで生命の意思を表したかのようだった。この夜、弟の息子は無事誕生した。



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マティス展での小さな発見~リュクサンブール美術館~

 リュクサンブール美術館 で開催されている"Matisse,Une Seconde Vie(マティス、第2の人生)"展 を見てきた。

ルクサンブール公園 La Gerbe


 やはり実際に足を美術館まで運ぶと、小さいながらも何かしら新たに感じ入ることや面白い発見があるものだ。今回の最大の発見は下の有名な「絵」、"Polynésie,la mer(ポリネシア、海)"と"Polynésie,le ciel(ポリネシア、空)"(1946)にまつわることだ。

Polynesie,la mer Polynesie,le ciel


 この「絵」はいろんな機会に本や雑誌やリトグラフなどで知ってはいて、色彩と構図に「理屈」抜き・「うん蓄」抜きに惹かれていた作品だったのだが実際見にいってみると「絵」ではなかったのだ!"~la mer"の方などは200 x 316 cmというサイズから分かるように両方の作品で美術館の一角の壁を占めるほど目立っていたのだが、「あ、これこれ~」などと悠長に呟きながら遠くの入り口から近づき始めたとき一度ハッと足を止め、すかさず今度は思い切り近くに寄って凝視してしまった。これは「タペストリー」ですよ。その質感を見てみてさらに好きになった。すっかりマティスお得意の「切り絵」かと思っていたら。。


 マティスなどのフォービズム(野獣派)は、抽象画の中でも特に「理屈」「うん蓄」がいらない類の絵だと考えていた。なぜなら、彼らは色彩のエネルギーを奔放に解放して絵を構成していこうとしていたのだがら、色を直感的に感じ、そのパワーに感心できれば、鑑賞者としてだいたいの目的は達成できると思っていたからだ。


 しかし、やはり「うん蓄」を知るのも面白い。この美術展はアンリ・マチス晩年の作品を集め、1941年から亡くなる1954年まで友人の画家アンドレ・ルヴェールと交された書簡とともに展示される形式を取っていて、その文言が作品の脇や前に添えられていた。この"Polynésie~"の2作品の前には直筆の書簡らしき文書が展示されていた。そこには「この作品をつくるときに○×大臣から18世紀の絵のように書いてくれ、と頼まれたが、僕はOUIなんて言わなかった!」という内容のマティスの走り書きがあった。18世紀に見られたような荘厳で重厚なタペストリーを望んでいた大臣が、この開放感・爽快感に満ちた作品を見せられたときはさぞ驚嘆したことだろうねぇ。奔放な反骨」ともいうべき感性を感じてしまった。


 最後にもう一つの発見。美術館の帰り際にリュクサンブール公園の一隅で扇子をもったこんなあやしい集団を発見。何やら、太極拳と日本舞踊とをミックスしたようなパフォーマンスの練習をしていたようだった。


dance1 dance2


 誰かこれが何のダンスか、あるいはどんなアーティスト集団かご存知であれば教えて下さい!今、パリで流行っている健康法か?・・・ないな、それは。


 マティス展から出てきた僕はマティスの"ジャズ"という連作の一つである下の絵"Jazz, planche VIII, Icare"を思い出して、独りニヤニヤしていた。


Jazz, planche VIII, Icare.jpg



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反偏見・反固定観念として

 今回は以前私が書いた記事「『フランス人=冷たい、日本人=丁寧でやさしい』は間違いと言い切ろう 」に対するrgtsさんのコメント「日本人も、やっぱりいい人です」 を受けて、記事を起こしたいと思います。長くなりますし、もう少し詳細に意図を伝えたいのでコメント内ではなく記事にさせていただきました。しかも、ニュアンスが微妙な話題なので初めて「です・ます調」で。


 rgtsさん、コメントいただき、ありがとうございます。確かに、日本の地方の方で、ここで言っていたような他人との距離感をうまく保てる感性をまだお持ちの方が多いというのは、おっしゃる通りですよね。


 誤解があったようで申し訳ありません。しかし私が言いたかったのは、おっしゃるような「日本人=冷たい」ということではなく、タイトルにあるように「フランス人=冷たい、日本人=丁寧でやさしい」という固定観念から解放されよう!ということでした。それを言うために、「フランス人=冷たい、日本人=丁寧でやさしい」ということとは違う事例を持ち出して紹介していたのです。「日本人=冷たい」と言ったのでは結局逆のステレオタイプを生み出そうとしているだけですよね。で、むしろ「日本人の方が冷たい!」というのではく「フランス人は意外とやさしい!」ということを強調したかったのです。また同時に日本人が昔持っていたはずの尊重すべき感性を明らかになくしかけていることに危機感を覚えていたのです。


 これを読んで下さった方が今どのような印象を両国の人に対して持っているかによって反応は違うと思っていたのですが、こと日本やフランスを行き来し、フランス人に関係した日本人の話を聞いていると、「フランスはオシャレな国みたいな印象が日本人にはあるけど、実際にはウェイターや店員は雑だしサービス精神がなく、パリで働く人も個人主義で人のことなんてお構いなし」というようなフランス人の非人情的な認識が多く存在すると私は感じていたのです。私にとってそういう認識が最近のフランス人に対する日本人の固定観念だと思っていた上に、こちらに住み始めて、必ずしもそうとは言い切れない事情を何度も目の当たりにしたので、それとは違う事例を挙げて「そうとは限りませんよ!」と言ったまででした。


 私も地方出身者ですし、大阪や名古屋など東京以外の大都市でも、まだ私がいう他人との距離感をうまく保つ感性がある程度残っていることを私も認識していました。私は自虐的ではなく、むしろこの件以外の日本のカルチャーには誇りを持っていますよ(「日本人は自虐ネタが好きである」というのもステレオタイプですよね)。だた、これ以上は印象論になってしまうでしょうし、記事内で触れた「場面」と「観察者の立場」にもよってくるとも思います。「そんな人ばかりとは言えない」と議論していってもキリがありませんよね。
 
 ただ、もう一つ付け加えるとすれば、rgtsさんがおっしゃるような「東京の人が、そのようなイメージつくりに貢献している気がしてなりません」ということでも十分問題じゃないか、とも思います。私はサンプルとして世界都市である、パリと東京とに限定して議論をしたつもりだったのですが、首都は外国人がまず最初に訪れる場所であり、一応、その国を代表したくなくても代表してしまう場所ですよね。その二つの首都を比べたときにどうしてこのような差ができるのか、どうして大都市病の生じ方が違うのか、という点に私は関心があります。


 これに関してはまた後日記事にしたいと思います。また、冒頭の「偏見や固定観念からいかに自由でいるか」に関しても、また後日に書きます(フローラン・ダバディ氏もそれに関して最近書いています )。その際にもまたコメントしていただけたら幸いです。ありがとうございます。



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