パリの専業主夫
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ジヴェルニーのモネの家で

モネの家でくつろいで来た。何かこう書くとモネという仏人の友達の家で一晩くらい泊まってきたかのようだが、モネとはもちろんあの画家のモネ。彼が晩年「睡蓮」の連作を描いたジヴェルニーの家だ。


例のごとく、ブリュッセルの友達がパリに車で遊びに来たので、その車に乗ってジヴェルニーにまで日帰り小旅行をしようということになった。ジヴェルニーとは、パリの北西にある小さな田舎街だ。パリから車で4-50分も行けば着いてしまう。


何だか、この街、かわいいよ。モネの墓がある教会の通り沿いに民家が立ち並んでいるんだけど、ツタに包まれたり、花にびっしり囲まれていたり、緑に埋もれている感じだ。宮崎映画のトトロやラピュタを思い出してしまう。


ジベルニーの民家1 ジベルニーの民家2


モネの小さなお墓に行った後、人に道を聞いてモネの家に向かった。ここは駐車場があったり、入場券を買う必要があったり、出口にはショップがあったりで、博物館のような感じだけど、中に入れば、気持ちのいい公園。よく手入れされているものの人工的に開発し切った感じはないので、整然とした中にも草木に鬱蒼と生い茂った印象が残っていていい。


モネの家から庭園を眺める 睡蓮の池

驚いたのが、モネの家の中にはモネの代表作のコピーの他に、多数の浮世絵コレクションがあったのだ。彼も他の印象派の画家たちのように浮世絵好きだったらしく、葛飾北斎などの浮世絵(全部本物かは定かではない)をマニアのように収集していた様子が伺える。


この街、ちょっとした小旅行にはお薦めですよ。でも僕らはこの街を2-3時間で回ってしまったとき、まだ午後3時くらいだったので、えぇぃ行っちまぇっ!ていう感じで、何とノルマンディー地方のエトルタっていうところまで行ってきた。ここで海を眺めて飯を食って帰って来たのは夜12時くらいだったけど気持ちよかったね。まさか朝家を出るときは今日、海を見るとは思わなかったけどね。



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西洋人は耳が大きいか~語学学校終了~

ひとまず最初の語学学校が終わった。


海外で語学学校に通うということは初めてだった。前も言ったけど、仏語自体は大学時代に外国語として1年半やっていたが、何せ10年も前のこと。それからフランスには旅行で5,6回来ているものの、仏語はまともに続けていなかった。そして今回テストによって振り分けられたクラスは中級クラス。ま、そんなもんか、とは思っていた。


授業が始まり、数日通って僕は愕然としていた。先生の言っていることが全く分からない。他の生徒が授業中に話していることが分からない。そして、もっと分からなかったのは彼らが何でそんなに先生の言うことが理解でき、何でそんなにしゃべれるのかが分からなかった


まず、先生は僕の想定していたよりもずっと早口でしゃべっていたのだ。こんな調子でしゃべっていることが聞き取れるのなら、上級クラスに行けるじゃん、とさえ思っていた。もちろん、文法の少し分かりにくい説明では何度もゆっくり説明してくれるのでいいのだが、冗談好きな先生は説明の合間に生徒をいじったり、教えてくれたフレーズを使って笑わせたりする。その度に教室は笑いが起こるのだが、僕は無反応。。。


生徒も自ら質問する奴もいれば、いじられた際、冗談で言い返す奴さえもいた。僕はと言えば、先生に当てられたときに問題の答えを言うのに精一杯。。。


これはよく言われること。西洋人は語学学校でもよく聞けるし、よくしゃべる。今回は、20人あまりのクラスだったのだが、アジア人はコリアン、日本人合わせて5人程度いるだけであとはみんなアルファベットを母国語にもついわゆる西洋人。アメリカ人が10人程度、あとはオランダ、イタリア、ポーランド、ウクライナなど。そのうちもともと英語が話せる人がほとんどだった。


何で同じクラスに振り分けられているんだろう。僕はほとんど事前に仏語のヒアリングや会話の訓練をしていなかったから、ある程度覚悟はしていた。でも、ここまでとはねぇ。。。最初のディクテでは見事に僕はビリだったし。でも、面白いことに文法や活用(コンジュゲゾン)の知識に関してはほとんど変わらないのだ。文法や活用の点数は中の上くらいだったし、よーく彼らの質問の内容を聞いていると「おいおい、そんなことも知らないのかよ」というほど、結構初歩的な質問をしているのだ。


要は、彼らは恐い物知らずで何でも気軽によくしゃべるのだ。これは見習わないといけないね。ま、少なくとも、気軽に簡単な質問をするくらいの仏語はもう覚えたつもりだしね。


もともと西洋語を母国語とする利点、果敢にしゃべろうとする意欲などの他に、僕が1つだけ考えないようにしている理由がある。それは「若さ」。写真を見てもらえば分かるかもしれないけど、彼らは大学の夏休みに来ている生徒が大半なので、20歳前後の奴らばっかりなのだ!中には16歳の奴までいた!


ナイトピクニック

その代わりと言っては何なんだけど、彼らとは語学学校の後、ナイトピクニックに行くなど、充分に交流を図って「若さ」をちゃんと吸収して来たのだ(ただ酔っ払っていたわけではない)。




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カミカゼ=自爆テロ!?

パリにいると、テロは他人事ではない。


奥さんは十年ほど前の留学時代、リヨンの駅構内での爆破事件に遭遇したことがある。つい最近ロンドンで起こった地下鉄同時爆破テロではパリに遊びに来ていたロンドン在住の友人がテロ発生直後にパリからロンドンへ到着し、停止する直前の地下鉄に乗っている。


そのロンドンの地下鉄同時爆破テロがフランスでももちろんテレビで報道されているわけだが、仏語鋭意学習中の僕でさえもある単語が引っかかった。それは


「Kamikaze」(カミカゼ)


という日本語だった。奥さんにテレビを聞いてもらったところ、どうもそれはテロ実行犯が自らの命を犠牲にして目標を爆破すること、つまり「自爆テロ」を指しているようなのだ。


「Kamikaze」とは太平洋戦争末期に日本軍が編成した「神風特攻隊」の「神風」から借用していると思われる。実際に「神風特攻隊」に代表される「特攻隊」がどのようなものであったかはここでは触れないが、僕はこれが西洋人から見た「東洋の蒙昧な狂信性」という一点だけでこのように借用されてしまっているという気がしてならない。


イスラム教原理主義の過激分子が引き起こす無差別自爆テロと、太平洋戦争末期に日本軍が採用した体当たり攻撃。僕はもちろんどちらが良いとか悪いとかを言おうとしているのではない。しかし、あまりに時代や背景、そこに関わっている人々の立場が異なっていることは明らかだ。正直、日本人として何となく嫌な感じがするのだ。


なぜなら、一つに、そのような違いがあるにもかかわらずそれを「東洋の蒙昧な狂信性」として一緒くたにしている雑な感覚があると感じるからだ。さらに、両方とも本当に洗脳されたロボットのような妄信的な行為だったのかということに疑問があるからだ。僕は九州の特攻記念館に行って特攻として死んでいった青年たちの真摯な気持ちをつづった短歌などを見たことがある。


みなさん、いかがでしょうかねぇ。僕は全くファナティックなナショナリストではない。むしろ、最近の日本の冷静でないナショナリスティックな風潮に嫌悪さえ感じている。でも、一般の西洋人から、アラブも日本も同じ後進的で蒙昧な気質があるので何をしでかすか分からないと思われているとすれば、少し嫌な気も起こる(もちろん普通のアラブ人の方が今もっと複雑な心境でいることはよく分かる)。


どうしてこのような借用が起こったか経緯をご存知の方がいたら、お知らせ下さいね。



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携帯電話は壊れてない?!~滞在許可証無事取得~

 僕らはラ・デファンスにあるSFRショップにいた。僕らの対応をしていた黒人の女性店員は両手を広げて、


「これじゃぁまだ契約はできないわね・・・」


とつぶやいた。頭を抱える僕ら。せっかくこのために滞在許可証の取得を早めてもらった のに・・・。


 滞在許可証は無事取得できた。今回もナンテールの県庁で前回の申請時と同じ、僕らにやさしい担当者に対応してもらった。


 僕らはその後、デファンスにあるSFR(携帯電話の通信事業者の1つ)のショップに向かい、兼ねてから壊れていた携帯電話を買い替えに行った。そもそも僕の携帯電話はフランスの携帯の宿命か、ダイニングテーブルに置いておいたとき、ワインがこぼれて、ご臨終。その後、ドライヤーで乾かしても、いくら時間が経っても、再起不能だった。そこで買い換えようということになっていたのだが・・・、

 

 他国のことは不明だが、フランスでは携帯電話を通信の契約とともに買おうとした場合、最低でも銀行口座とともに滞在許可証が必要になる。これまでもっていた故障した携帯電話はプリペイド式で、プリペイド式を買う際にはもちろん銀行口座も滞在許可証もいらなかった。


 ただし、プリペイド式の携帯電話は機器が高く、通信契約付きの携帯電話は圧倒的に安く手に入る(最も安いのでは1ユーロの機器がある)。プリペイド式の機器を買ったときは、50-60ユーロくらいのものを買ったのだが、壊れたからと言って同程度の価格のプリペイド式携帯電話をまた買うのは辛かったので、滞在許可証の取得を待って通信契約付きの携帯電話を購入しようと考えていたのだ


 ところが、せっかく滞在許可証が早く取得できたというのに、今度は銀行口座の手続きに不備があると店員が言うのだ。店頭から銀行に問い合わせたところ、そのように言われたという。


 落胆して、また出直して来ようかと呆然としていると、それを見かねた女性店員が、


「その古い携帯電話、一応、充電してみる?」


と言ってくれて、僕の壊れた携帯電話を充電システムのある奥のカウンターまで持って行ってしまった。その間、僕らは途方に暮れていると、すぐにその女性店員が呼ぶ声がする。まさかと思い、そのカウンターに行ってみると、


「充電したら、電源が入ったわよ。メモリーも大丈夫みたいね。」


 は???壊れていたと思っていた携帯電話が壊れていなかった?ま、少なくともそのときになって僕の携帯電話は確かに復活していたのだ。何度もこの件で僕らが店頭を訪れていることを知る女性店員も苦笑い。最後は何だか優しい表情で別れの挨拶をしてきた。


 僕らは狐につままれたような思いで、帰途に着いた。結局僕らは得をしたのか?損をしたのか?そのプラスマイナスをいつまで計算しても全く答えが見つからないまま、その日の夕食では、滞在許可証取得を祝ってシャンペンで乾杯した。もちろん、そのとき、僕の携帯電話はシャンペンがこぼれないようなとーーおくの方にちゃんと隠しておいたのだった。



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携帯電話故障のおかげで~滞在許可証申請~

こんなことはまずないらしい。滞在許可証の申請から発行までの期間を1週間にしてくれたのだ。


今日は、日本で取得したVISAと昨日の健康診断の結果をもって、滞在許可証の申請のためにNanterreの県庁に奥さんと行って来た。


約束の時間があり、その時間に行くと、担当者の部屋に通された。その担当者はかなりのおしゃべり。奥さんが仏語が達者だと分かると、ときどき仕事の手を止めながら世間話をずーと続けていた。まず、住所が自分と近いのでご近所さんだね、とか、アラブ系や中国系の人たちは感情が粗くうるさくて嫌いだけど日本人はおだやかでいいね、とか1日に僕が処理する件数は200件ほどだとか。。


フランスの県庁の役人など、レストランやカフェの店員以上に愛想が悪く事務的ではないかと勝手に思い込んでいたんだけど、それがこのように僕らに冗談を言ったり、自分の仕事の様子を話したり、日本の外国人事情を聞いてきたりして、愛想がよくやさしい


話ながら作業が進んで"Carte de Sejour"(滞在許可証)の申請書がすべて揃った。そろそろ取得のための次回の面会をいつにするか決めるときが来た。そんなときおもむろに奥さんがこんな話を始めた。


「携帯電話の契約にも滞在許可証が必要ですよね。実は彼(僕)の携帯電話が故障してずっと使えず困っているんですよね。今日もらうのは申請書ですよね。それで携帯電話の契約ってできますかね?」


するとその担当者が、


「え?それは難しいだろうね。正式な滞在許可証をもっていないとだめでしょう。そうか、彼は携帯電話が故障しているのか。それは大変でしょう。」


というと手帳を取り出し、


「それじゃ、滞在許可証発行の手続きを特別に来週辺りに設定して差し上げましょう。」


と言って、なぜか僕らの発行手続きの日を来週の金曜日にしてくれたのだ。え!普通は申請から発行まで1ヶ月ほどはかかると聞いていたのに!机には山のように積まれた申請書類の数々。それをゴボウ抜きしてトッププライオリティ待遇で対応してくれるというのだ。


最後は握手をして気持ちよく別れた。何か得した気分♪


後で聞けば、奥さんは決してあの携帯電話の故障の話題を面会日程設定の交渉材料にしようと思って持ち出したわけではないとのこと。意図的に交渉に持ち込んだのではないのに結果的にいい結果をもたらしているのが彼女らしい。良く言えば「天然系の人間力」、悪く言えば「たなボタ」?


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健康診断に仏語教師?!

僕はそのとき「私はフランス語を勉強している」と言いたかった。それで口を付いて出たのは、


”ジュ・エテュドゥ・フランセ”


すると彼は


ジェテュディ・フランセ”


とゆっくり訂正してくれた。目の前にいたのは仏語教師ではない。医者だったのだ。


先日、日本でVISAを取得したが、その期限は3ヶ月。それをもって各地域の県庁に行き、1年期限の"Carte de Sejour"(滞在許可証)を申請する必要があるのだが、その前に健康診断を受けるなければならない。その健康診診断に今日の午後、語学学校を早退して行ってきたのだ。


場所はパリの南、Chatillon MontrougeにあるOMI(フランス移民局)。所定の書類を渡し、まず、身長・体重を量り、レントゲンを撮り、最後は問診らしかったが待つこと10分。とある白人の医者に名前を呼ばれて、診察室に入ると服を脱ぐように言われた。そして心臓を音を聞かれた後、何かを仏語で言ってきた。僕は聞き取れず、はっ?という顔をしていると、突然、


「フクヲキテ、マタココニモドッテキテクダサイ」


といきなり日本語を話し始めた。その後、仕事をしているのかなど質問を受けたときに、冒頭のようなやりとりがあったのだ。僕がなるべく仏語で話そうとしていたら、何度か仏語を訂正してくれた。仏語で日本語はどうして話せるのかと訊くと、十年ほど前に少し習っていたけど、忘れちゃったと言っていた。だから、僕も仏語を勉強していたのは十年前だから同じだ、とちゃーんと仏語が拙い言い訳をしておいた。


英語・仏語・日本語を交えながら、何とか既往症などの説明をし終わり、診察が終わった。帰り際に仏語で、


「今日は2人の仏語教師に会ったよ。1人は朝に。もう1人は・・・」


と言うと、


「午後だな。」


と答えてくれた。


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革命記念日の花火と掛けて・・・

昨夜パリに帰って来て早々、奥さんと花火見物に出かけた。


昨日は7月14日(キャトーズ・ジュイエ)で革命記念日。僕にとってこの祝日は初めてだった。ただ、奥さんによると、例の航空ショーの一群を家からも見られたらしかったが、僕がパリについたのは午後の4時過ぎ。それらしい雰囲気を楽しむには、花火を見に行かなくてはならなかった。


奥さんがWeb上で情報収集したところによると、花火はトロカデロやエッフェル塔近くで上がると聞いていた。正直、人ごみが苦手なので、日本でも花火大会などを敢えて見に行くことはあまりないのだが、最初の革命記念日くらい行っておこうと思って、寝不足の目をこすって外に出た。


最初、メトロ1号線でシャルル・ド・ゴール・エトワール駅から6号線に乗り換えてトロカデロ駅に行こうしていたが、6号線への乗り換えの時点でホームに人が溢れ返っていて、早速シャルル・ド・ゴール・エトワール駅から歩きで現地近くまで行くことにした。外に出ると、面白いことにフランス人も外国人もみな同じ方向を目指して歩いていた。現地に近づくとだんだん多くの人が合流してきて、みんなと一緒に無国籍デモでもしているような気分になっていた。


9号線でトロカデロの隣の駅であるイエナ駅に着くと、奥さんはこの辺で座ってみようと言い出した。2年前、留学時代にエッフェル塔近くで大混雑を経験した教訓らしい。僕らはイエナ広場ですでに見物客として人が座り始めていた建物の階段に座って見物することにした。


10時半を過ぎたところで花火が始まった。最初はエッフェル塔から花火が噴き出した。だいたいエッフェル塔から火花が飛ぶという光景ほど世紀末的で、シュールなものはない。大砲がエッフェル塔から360度に向けてスポスポ放たれているようだった。建物が邪魔して頭しか見えないのだが、意外に楽しめた。


左がエッフェル塔、右がトルカデロ


それからトルカデロの花火がそれに呼応するように上がった。これは単体では音も形も普通日本で見るものと同じようだったが、質も規模も大きな日本の花火大会には全然及ばない。ただ、それがエッフェル塔との絶妙なコンビネーションを見せていて面白かった。例えば、今年はフランスにおけるブラジル年だからといって、ブラジルカラーの黄色やら緑色やらの花火がエッフェル塔から飛べば、トロカデロの花火も同じ色で大きく応える。この辺りの芸は細かかったなぁ。


僕はそれを見ながらなぜか僕ら夫婦を思い起こしていた。もちろん、エッフェル塔の花火は奥さん。トルカデロの花火は僕(笑)。半分ノロケ、半分内輪ウケかな。その心は・・・?



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専業主夫のビザ(2)~額に汗をにじませ取得~

取れました、専業主夫のビザ。


実は突然、先週、OMI(フランス移民局)からVISAの許可が下りていたことが分かり、急遽、一週間ほど日本に帰国していた前回のような手続き上の変な不備 がないか、祈るような気分で大使館に向かった。


準備した書類を確認しながら、月曜日の朝一番で仏大使館に駆け込む。相変わらず混んでいて開館前なのにもう列が出来ていた。この日から東京は朝から暑い暑い。大使館に着いたときにはもう汗だく。開館し自分の番が来たとき、書類は受け取られたものの、女性担当者が


「あのー、カラー写真が1枚必要なので、撮って来て下さい。」


と言ってきた。これは前回、奥さんが申請したときにも言われていないし、もらっていた資料にカラー写真が必要だとはどこにも書いていなかった。少し驚いたが、最近はVISA制度の過渡期とも聞いていたので了解して、その後すぐに撮影し写真を持って行った(申請受付時間は9時から11時半まで)。このときさらに汗は吹き出していた。


大使館は時間が遅くなるほど、ひどく混雑していた。カラー写真は申請窓口の担当者ではなく、空いている受取窓口のフランス人に渡しておいた。


翌朝、VISAの貼り付いたパスポートを取りに大使館に向かった。ところが、受取窓口に行こうとすると申請窓口の女性担当者が、


「あのー、写真は?カラー写真!カラー写真は?」


と叫んできた。何のことか分からず少し戸惑った後、


「え?渡しましたけど。」

「いつ?」

「昨日。」

「だれに?」

「こちらの方に。」


と受付窓口のフランス人を指すと、二人で話し始め、ようやく何が起こっていたのか分かったらしい。んんん。受取窓口のフランス人が気が利かなかったのか、大使館は少しの融通も利かないようにできているのか。いずれにせよ、この手の手続きには念には念をいれた方がいいということを学んだのだった。


ちなみに、水曜日に出発すると伝えておいた(実際は木曜日)ので、大使館の人は急いでその場で作ってくれた。非を認めてくれたらしい。


最後までこんなドタバタがあったのだが、とにかくVISAが取れた。一応、同行家族VISAとして申請していたが、パスポートのVISA欄には「VISITEUR」とある通りビジターVISAになっている。このビジターVISA(自由業者VISA)は、通常はかなり実績のあるアーティストや大手報道関係者に与えられるものだが、同行家族にも入国後は適用されるらしい。ま、のちのち「かなり実績のあるアーティスト」になることを考えれば同じことか(笑)。


その横には、額の汗が見えそうなほどくっきりとしたカラー写真が掲載されていた。



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フランス人の誕生会~別荘でのホームパーティ~

この週末をかけて夫婦で長年付き合いのあるフランス人の女友達の別荘に招待されて行ってきた。彼女の妹の35歳を祝う誕生会がロワール地方ロッシュ近くにある別荘で盛大に催された。


僕らはパリからレンタカーをして向かった。片道約300kmなので平均時速100kmで行けば、ほぼ3時間の道のり。迷いながら着いてみると、とんでもない大邸宅。広さ数ヘクタールもある敷地に、プール、テニスコート、家庭菜園も付いた大豪邸にぶっとんだ。


正門より 中庭より


そもそもフランス人は自分の誕生会を自分で主催する。主な参加者は彼女の同年代の夫婦たちが10組ほど集まり、子供も含めて総勢30名ほどにもなった。僕らは昼過ぎに着いてから軽いランチをしていたが、その午後に少しずつ彼女の友達が終結してきた。


日なたの気温はすでに30度を超えていた。午後になってみんながまずしたことがプールに入ることだった。その様子見ていて面白かった。子供はまだ分かる。でも、他人の家のプールで大人たちが普通に無邪気にはしゃいでいるのに感心した。日本人の感覚だと他人の家に来ているのだから、いくら仲のいい友達だからとはいっても、少し遠慮してしまったりするものだが、プールに入ったことがないのか!というくらいにいい大人たちが自然に生き生き遊んでいた。家主たちだってそれを全然気にしない。ということで、僕らも一緒に戯れた(って様子を見てから行動する時点で日本人っぽい)


プールではしゃぐ大人たち 天使の戯れ


夕方になると、みんなそれぞれシャワーを浴びてアテリティフをプールサイドで飲み始める。主役の彼女が白が好きだということでみんな白を着てきた。ここではもうフランス人得意の機関銃トークが最高潮。普段の生活の話、仕事の話、子育ての話、日本の話・・・。そんな中、ホストである主役の旦那さんが僕らのことを「彼らは日本人の新しいタイプの夫婦なんだよ」と少し茶化しながら紹介してくれた。奥さんを通じて僕も話に加わる。彼らは変なカツラをかぶっておどけたり、写真をとったりしながら、シャンペンをあっという間に空けてしまった。


白で決めて・・・ エルビスとアフロ


夜はバーベキューとお約束のダンス。家庭菜園でのじゃがいもやいんげんが登場し、肉にソーセージが焼かれて振舞われた。音楽がスピーカーから大音量で放たれても、近所迷惑になどなりようがないので、誰も気にせず、踊りまくる。即席でキューバ人のサルサ教室が始まったり、夜中電気の着いたプールで泳ぐ人がいたり、このフランス人のおっさん、おばはんたちはかなり元気だった。途中、「Bon Aniversaire~♪」と誕生会お決まりの歌を歌い、主人公をケーキとろうそくで祝ったと思いきやすかさず踊り出す。世代のせいかレイヴとはいかず、80年代ユーロビートやロックに懐かしがって気ままに踊っていたんだけどね。僕ら2人は力尽きて先に寝てしまったが、みんな踊り明かして、邸宅のソファーなどで雑魚寝したらしい。


ダンシング Bon Aniversaire!


もちろんフランス人がこんな盛大なホームパーティをいつも開いているわけではないだろうけど、どんな狭い部屋でもどんなささいなきっかけでもこれでもかというほどホームパーティをやろうとするよね。日本人も最近の人はやることもあるのだろうけど、僕らの親の世代(今60歳前後)以上の日本人ってよほど海外生活経験でもない限りあまり他人を気軽に自分の家に呼ぶってことはしなかったんじゃないのかな。昔、農家では田植えが終わった後や収穫祭などには、小作人が地主の家に集まって宴会をしたりする習慣はあったみたいだけど、そうでもない限り、あまり他人を自分の個人的な空間に気軽に招き入れるってことはしなかったと思うし、呼ぶとなったら思いっきり張り切っちゃって掃除を完璧にし、豪華料理で迎えた。その雰囲気が結構最近まで残っていたと思う。


そんなことを翌日の帰り道考えながら高速をぶっとばし、家に帰ったら何故か無性にそうめんが食いたくなったので、そうめんかっ喰らってから、何だか疲れて早々に寝てしまった。



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仏語面接で語られた僕の人生?

7月から仏語の語学学校(ソルボンヌ大学文明講座)に通うために先日申し込みをしてきたのだが、そのコースはクラス分けテストがあり、今日それが行われた。


僕は大学時代に1年半ほど仏語をやっていたきりで、それ以降ほとんどやっていない。初級と中級の間くらいまで落ちてしまっているのは分かっていた。もちろん、クラス分けテストなので完全な初級の人から上級の人までいたため、試験はそれを想定して行われたのだが、僕は問題文にすら読めない単語があったので試験そのものの出来もあまりよくなかった。


席に着かせられると、まず名前、住所を書かせられた。その際、


「鉛筆ではなくて、ペンで書いて下さい。」


と何度か言われたが、その時でさえ、最初からボールペンで書いていたのに敢えて鉛筆で書き直してしまったくらいだった(要は、「stylo:ペン」と「crayon:鉛筆」とを逆に解釈してしまった)。


最初にいきなりディクテがあり、試験官が問題文を読む。といっても、一度きりではなく、初級者に合わせて何度も繰り返してくれるのでまだよかった。あとは問題文を読んで回答するというもの。ある文章の名詞を複数形にしろだとか、ある単語を使って文章を作れとか。で最後に、あるテーマにしたがって自由に作文、という流れだった。


試験をやり終えると、終わった人から何人かいる試験官のもとに提出しに行き、そこで簡単な面接のようなことをして会話力を確認されたようだった。僕を担当した試験官は、おそらく僕と同じ歳くらいの小ぎれいな女性だった。いろいろな質問の中、こんなやりとりがあった。


「フランス語を勉強していたのはいつ?」

「10年前です。」

「え?10年前!10年前って10年前よね?」

「そうです。僕がフランス語を勉強していたのは大学時代ですから。」

「あら・・・そう・・・」


「パリでは何をしているの?」

「説明するのが難しいのですが・・・」

「あ、なるほど、大丈夫よ、ゆっくりね。」

「奥さんはパリで働いています。」

「あ、なるほど。それで。」

「僕は奥さんに付いてきました・・・」

「え?もう一度言って?」

「僕は奥さんに付いてきました!」

「奥さんに付いてきた!?」


彼女は何にそんなに驚いていたのだろう(笑)。僕の仏語か、それとも僕の人生か・・・。クラスが始まったら、真意を確かめてみよう。



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